「美しい顔」に寄せて――罪深いということについて
2018年7月17日 東北学院大学 金菱 清
「エッセーやルポルタージュと比べて何が小説を特別にしているんだろう?」と自問しながら、NHKのインタビューのなかで、カズオ・イシグロが、小説とは何かについて自らの問いに答えている(『カズオ・イシグロ文学白熱教室』)。
「私はあることを発見した。物語の舞台は動かせるのだと。舞台設定は物語の中で重要な部分じゃない。これに気付いた後、舞台設定を探すのが難題になった。あまりに自由になってしまったからだ。・・・物語を色々な舞台へ、世界中の様々な場所、様々な時代へ移せると分かってしまったからだ。」(イシグロ)
「小説の価値というのは表面にあるとは限らない。歴史書を時代を変えていいとしたら、おかしなことになる。歴史家がそんなことをしたら許されないだろう。でも、小説では可能だ。つまりこれは、物語の意図するものは、表面の細かい部分には結びついていないということを意味する。小説の価値はもっと深いところにある。想像したアイデアの奥深いところにある。だからアイデアをいろいろな舞台に設定して考えてみる。どの時代に設定したらストーリーが最も活きるのか。・・・小説の中は自分たちのことと似ている。歴史上の出来事とは違っていても、倫理上の繋がりは同じだ。」(イシグロ)
本来的にいえば、フィクションであれ、ノンフィクションであれ、倫理的な繋がりが同じ地平にあることは論を俟たない。しかし、『群像』6月号「美しい顔」はこの倫理上の繋がりをやはり裁ち切っていると問わざるをえない。作者の北条裕子氏からいただいた私(金菱)への手紙*1によれば、震災そのものがテーマではなく、私的で疑似的な喪失体験*2にあり、主眼はあくまで、(彼女自身の)「自己の内面を理解することにあった」とある(私信のため詳細は省く)。つまり、小説の舞台がたまたま震災であっただけであり、その意味においては、安易な流用の仕方も小説特有の「自由な」舞台設定と重なる。そして主人公の口を衝いて出る言葉を通して「雄弁」に震災を物語ろうとする。受賞の言葉にも、私信にも、執筆動機として震災の非当事者としての私的な自己理解の欲求が述べられ、おそらく次の小説の舞台装置があるとすれば、震災ではないだろうことは容易に想像がつく。つまりその程度の位置づけでしかない。
「美しい顔」に参照された文献は、そのほとんどが、発災1年以内に公刊されたものだ。しかし、震災における現実の舞台はとうに次の課題に直面しているのである(『3.11慟哭の記録』は6年前の2012年発刊)。沈黙の中にある表現しえないものとは何かである。震災の「未だ」そのなかにいる私たち(被災者もそれを語る人々も)にとっては、場所と時間を自由に移動できるようなものではない、そのような世界と日々向き合わざるをえない。これは逃れえない主題である。簡単に離脱できるものではないのである。もしそれが可能ならば、小説においても示していただけたらと願うばかりである。
講談社の「その類似は作品の根幹にかかわるものではなく」というコメント*3は、言い方を変えれば、類似程度は文学的価値に比べれば、些末な問題であるとも聞こえてくる。根幹ではない私たちの軽い震災記録とは一体何かを考えざるをえない。今回多くを発言している人もまた、問題が収束すれば、震災とは切り離された処で無関心を装ったまま日常に安住することになるだろう。
7年余りという年月はどういうものであったのだろう。震災(被災地)の外では、震災をかようにようやく語り始めたようだが、震災の真っただ中にいる当事者は、ますます語らなくなっている現実がある。この逆転現象をどのようにみるのか。本作品では7年前のとある出来事のように雄弁に語られるが、7年経って今の被災者はその多くが口を閉ざして固く沈黙してしまっている。7年経ち、逆に7年前の記憶で止まったままの多くの読者にとって、本作品が「疑似的」に新鮮にうつるのだろう。だが事実は小説よりも奇なりの側面を抱えていることを私たちは常に現場で教えてもらう。それは次の記事に詳しい。
「あの日逝った大切なペット、ひとへ「今どこにいますか?」 揺れる思いを綴る」
https://www.buzzfeed.com/jp/satoruishido/3-11-tegami?utm_term=.bvGvjQA9Dq#.hlj8VjQP3w
金菱清編『悲愛 あの日のあなたへ手紙をつづる』*4インタビュー、石戸諭、Buzzfeed2017.3.11)
つまり、当事者にインタビューをすれば震災を理解できるというものでは、すでになくなってきている。当事者もどう震災を理解してよいのか考えあぐねている場面に多々巡り会う。小説家だけが言葉を書く特権性を持ちうるのだろうか。否、市井の人々こそ言葉を書き綴ることの文学性を持ち合わせていると痛感する時がある。私は当事者が自らの意思で書き綴る手紙と、そこから読み取れる深い沈黙の意味を、ライティング・ヒストリーと呼んでいる*5。
さらにいえば、たとえ震災を直接的に語らなくても、そこから震災について十二分に示唆に富んだものを与えてくれる小説は少なくない。つまり、あえて小説の中で震災を仔細に描写しなくても震災を語りうると私は考えている。したがって、被災地に入るかどうかももはや関係ない。
ただ現実的には、7年経った今でも行方不明の方がいて、たとえ1%でも生きていることを日々願って帰りを待っている家族がいる。そしていまだ手を合わせることもできない人がいる。語れない人がいる。現場では当事者性すらが奪われているのである。その生々しさを抱えたまま、薄皮一枚でかろうじて繋がり未だ傷の癒えない人々にとって、否応なく小説の舞台設定のためにだけ震災が使われた本作品は、倫理上の繋がり(当事者/非当事者の溝)を縮めるどころか、逆に震災への『倫理的想像力』を大きく蹂躙したのだと私は述べておきたい。その意味において罪深いのである。
*1 『3.11慟哭の記録―71人が体感した大津波・原発・巨大地震』新曜社
https://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/978-4-7885-1270-2.htm
の参考文献不掲載と類似表現の問題に関して、2018年7月7日、『群像』の発行元である講談社を介して受け取った。
*2 疑似的な喪失とは、もっとも大切なものを喪う想像上の体験。金菱清「最後に握りしめた一枚を破るとき―疑似喪失体験プログラムとアクティブ・エスノグラフィ」『3.11霊性に抱かれて―魂といのちの生かされ方』2018 新曜社 https://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/978-4-7885-1572-7.htm
*3 「群像新人文学賞「美しい顔」関連報道について及び当該作品全文無料公開のお知らせ」(2018年7月3日、講談社HP)
http://www.kodansha.co.jp/upload/pr.kodansha.co.jp/files/pdf/2018/180703_gunzo.pdf
*4 金菱清編『悲愛―あの日のあなたへ手紙をつづる』2017 新曜社
https://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/978-4-7885-1515-4.htm
*5 金菱清「ライティング・ヒストリーの展開」『フォーラム現代社会学』17号2018: 137-147.
>>>>東北学院大学 金菱 清 「美しい顔」(群像6月号)についてのコメント(2018.7.6) へ
金菱清 編
東北学院大学 震災の記録プロジェクト
3.11 慟哭の記録
――71人が体感した大津波・原発・巨大地震
四六版560頁・定価2940円
発売日 12.2.20
ISBN 978-4-7885-1270-2
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