B.サンダース 著 杉本 卓 訳
本が死ぬところ暴力が生まれる 重版いたしました。
かなり挑発的な邦題をつけてしまったのですが、原著名はA is for ox. で、訳しようがないなあ、と思い切ったという事情もあったようです。まあすぐさま「単純すぎる電子メディア批判」といった、これは読んでないなあという紹介が掲載されたときには、がっかりしましたが、話題はよんだようです。天声人語にもとりあげられたり、また「よい本をひろめる会」のTさんが「どうかと思う書名だけど、この書名じゃなければ手に取らなかったかも」といいつつ、ずいぶん人に勧めてくれました。
さて本書のよい紹介として、なにか良いものがないだろうか。古い資料をかきわけると、季刊トップ99.3.20号という雑誌に養老孟司先生の書評がございました。下記に引用します。ご参考になればと思います。
本の題を読んだだけでは、いったいなんのことかと思うかもしれない。副題の「電子メディア時代における人間性の崩壊」を読むと内容がなんとなく想像できるだろう。電子メディアの時代になって、活字が読まれなくなり、その影響が出るのだな、と。
著者の言いたいことは、そう単純ではない。しかしなかなか興味深い。著者はまず、識字社会と口承社会の違いから説き起こす。こう書くと難しく見えるが、要するに文字ができた社会と、文字がない社会では、人々の考え方がどう違ってくるか、ということである。われわれは文字のある社会、つまり識字社会に住んでいるから、文字のないときの人々の考え方を忘れてしまっている。そうした無文字社会、すなわちものごとがもっぱら「口で伝えられる」社会をわれわれはただ「原始的」と見がちである。そうした見方が浅薄なものであることは、わが国の大学者、本居宣長を持ち出すまでもない。
口承社会から識字社会への転換によって、人々の考え方はきわめて具体的なものから、やや抽象的なものに変わってくる。著者はそれを英語の実例を引きながら説明する。ここは日本人にはピンとこないかもしれない。だから先に本居宣長の例を挙げたのである。宣長はすでにこの問題に十分気がついていたと言っていい。
この本の主題はその後にある。社会が口承から識字に変わるように、子どもの発達もまたそうなのである。そこに著者の主張の力点がある。社会の場合には、いきなり文字ができるわけではない。それ以前に、十分な口承社会の発達がある。いまの子どもたちはどうだろうか。
子どもはいわば、お母さんとの親しいやりとりのうちに、社会でいうなら口承の段階を経過する。それが十分に果たされ、豊かな口承段階を経て、はじめて識字が意味を持ってくる。ところがいまや子どもは、もっぱらテレビづけではないか。
テレビの大きな問題はどこにあるか。子どもがいかにそれに語りかけても、応答がない。テレビは自分の都合で勝手に話しまくるだけである。これでは子どもは必要な口承の段階を経ることがない。基礎なしに、識字に進んでしまうことになるではないか。
著者はたとえばアメリカのいわゆるストリート・ギャングたちを頭に置いている。こういう若者たちの多くは文字が読めないという。それを矯正するために文字を教えようとするが、それはうまくいかない。その理由は識字に至る以前の段階、つまり口承段階が不十分だからなのである。
日本は幸い、世界に冠たる識字国である。しかし、著者のいうような豊かな口承段階の必要性は、いま子育てをしている人たちにとって、大切な指摘であろう。この書物は未来社会への重要な警告と見なすことができる。
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