東北学院大学 金菱 清 「美しい顔」(群像6月号)についてのコメント
「美しい顔」(群像6月号)についてのコメント
2018年7月5日 東北学院大学 金菱 清
私は7月2日に『3.11慟哭(どうこく)の記録』の出版元である新曜社を通じて、短いコメントを発信しました。
震災をいまだ言葉で表現できない被災者が多い中で、それを作家自身がどのように内面化するのかが問われています。本書『3.11慟哭の記録』は、容易に表現できない極限の震災経験を、編者の求めに応じて被災者が考え抜き、逡巡しながら綴った「書けない人々が書いた記録」です。単なる参考文献の明示や表現の類似の問題に矮小化されない対応を、作家と出版社に望みたいと考えています。(2018.7.2)
私ども東北学院大学金菱ゼミナール・震災の記録プロジェクトは、この7年間震災と向き合い、毎年のように言葉を綴って出版してまいりました(『呼び覚まされる霊性の震災学』『私の夢まで、会いに来てくれた』 『悲愛』 『3.11霊性に抱かれて』等)。
そのなかで一番初めに出した
金菱清編『3.11慟哭の記録―71人が体感した大津波・原発・巨大地震』(新曜社2012)
は、560頁50万字を超える文字だけで綴られた被災当事者による震災の記録集・手記です。それらは、次のように評価されているものでもあります。
「巨大地震、大津波、原発事故に遭遇した71人の被災者が直後に万感の思いをこめて記録したものだけに、その価値は日本民衆史に残る。福島原発の大事故について19編の証言や告発などが胸を打つ」(歴史家・色川大吉氏 共同通信配信2012年3月25日ほか)
「一人として同じではない被災者たちの等身大の言葉は「人類史の記録」として大きな意味を持つ」(共同通信配信「連載土地の記憶・人の記録:大震災から1年半」2012年9月11日ほか)
「ひとたび読み始めれば、感じるのは重さではなく人間の体温。時が経つほど価値を増す一冊」(AERA 2012年5月21日号)
小説「美しい顔」(以下、本小説)において『3.11慟哭の記録』(以下、慟哭)との類似箇所が見られたわけですが、当初情報として類似箇所は何かを知らされていないなかで、本小説を拝読しました。では、50万字にものぼる慟哭の文字量のなかからどのようにして10数箇所の類似箇所が判明したのか。その作業は実はまったく難しくはありませんでした。
といいますのも、本小説を読みますと、慟哭を詳細に照らし合わせるまでもなく、すぐにああ、これは慟哭の手記のこの方やあの方からモチーフを採ったものだとわかるレベルでした。その意味では、内容の成熟度に関わらず、学生のレポートでもネットから情報を採って自分の文章として加工してくる手法と大差がありませんでした。一般的に教育の世界では、こういうことをしないようにと学生に教えています。ですので、その程度の執筆のルール違反の問題だと考えています。それは小説だけ例外として看過するわけにはまいりません。慟哭の記録は単なる素材ではありません。
それよりも、今回問題になっている表現の一言一句ではなく、ことの本質はその当時の『人間の体温』や『震災への向き合い方』にかかわるものだと感じました。
慟哭の中でも最も多くの箇所が参照されている手記は、まさにその当時避難所で物資も情報もない中で、無神経に取材にやってくるマスメディアに向けられた「怒り」を表したものであったわけです。このモチーフは本小説でも踏襲されていると感じられました。
あるいは別の手記において、食べ物のない、物資の届かない極限の状態のなかで「盗み」をせざるをえず、生きたいという感情からだったと自分をなんとか納得させる描写は、その当時の人の立場でなければ体現できないもので、これは現実の想像をはるかに超えるのです。そのモチーフも本小説に同様に見られました。
震災は、ネットで溢れているように「面白い/面白くない」とか「飽きた」という消費の対象ではむろんありません。3.11の前だけや、こうした問題の時だけに思い出す対象でもありません。被災者は毎日震災との付き合いを余儀なくされているのです。
一例でいえば、私が教えている大学には、津波で父母、祖父母を亡くしたり、いまなお行方不明の学生がいます。しかし学生同士で震災は話題にしづらく、たとえば同級生には父母は離婚をしたと嘘をいわなければやっていけません。嘘で表面を取り繕わなければならない、そんな現実に向き合いながら、一歩一歩薄氷を踏むように言葉を紡ぎだしているのです。
果たして、本小説の作家や出版社、あるいは今回の件で報道するメディアの方々はこのような未だ言葉にも出せず、一人で黙して涙している人々に対して、フィクションであれなんであれ言葉を与えることになったのでしょうか? そのような向き合い方をされているのか問いたいと思っています。それは震災を読み込む人にも問われていると思われます。被災地在住の有名な小説家も7年経ったいまなお、震災について言及しえず、一言も語っていないといいます。言葉のプロの作家でさえ震災の問題を内面化し、自らの言葉とするのは、それほどまでに、簡単ではありません。
その意味からいえば、究極的に、立場の違いはあれ、震災が人間という存在を今なお揺さぶるものである以上、震災において本質的に表現できないものとは何かという問いを突き詰めていく作業が、震災を表現することではないでしょうか。
>>>>>PDF版はこちら
>>>>>「美しい顔」に寄せて――罪深いということについて(18/07/17)
金菱清 編
東北学院大学 震災の記録プロジェクト
3.11 慟哭の記録
――71人が体感した大津波・原発・巨大地震
四六版560頁・定価2940円
発売日 12.2.20
ISBN 978-4-7885-1270-2
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コメント
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とてもキツい言い方になりますが「講釈師見て来たような嘘を言い」と言う昔の諺を思い出しました。
仮にも、一人称で知らない土地の事を語るに当たって、冷房の効いた図書館にこもる理由が私には分かりません。結果的に、「美しい顔」には東北の風土の匂いがない。主人公の少女は、いかにも東京のギャルですし、彼女を救う役割のおばさんも完全に小綺麗な東京の小母さまのイメージです。
かく言う私も、福島を訪ねていません。一度、震災後の仙台に伺ったのみです。ただたまたま、震災後の郡山に3.11以来数年間お付き合いしていた方がいた。ですけれども、こういう言い方は絶望的に聞こえるかも分かりませんが、私はどこまで行っても、自分は震災には責任の取れない取りたくない部外者です。その人が私に依存して来るので背負い切れず、見捨ててしまったのもありますが、人間は究極他人自身にはなれないのです。人のことは全部は分からないし、代わりになることも出来ませんから、せめてある時何らかの形の思いやりが持てたらなと思う、それが私の思想です。一期一会です。
私は人非人かも分かりませんが、振り返って言うならば、北条裕子さんは被災者に成りすますことで大きく何かを失っておられると感じます。
投稿: 葉山美玖 | 2018年7月 8日 (日) 02時42分
今回の新曜社さんのコメント、非常にありがたくて涙が出ました。
あの震災で家族を亡くした1人として、今回の事件はモヤモヤとした黒い感情を感じてました。
北条裕子氏の美しい顔は、全部読みました。
その上で、申し上げます。
マスコミへの怒りや被災地の悲しみ、やるせなさ……そういうものは、外の人間が「そろそろネタにしていいだろう」という判断できるものではないと思うのです。
あの震災はとてつもなく大きくて、失ったものがあまりに大きすぎます。
それを味わったこともない人間が、渦中にあった人間の文章を勝手に写し取って芥川賞などを受賞して欲しくないです。
講談社の中には、1人も被災者がいなかったのでしょうか?
あるいは群像の審査員の方々には?
ひとりでもいたら、このおかしさに気づいたと思います。
北条裕子氏の「美しい顔」は、小説として面白いと評価されてる方もいますが、それは悪趣味な面白さです。
決して外の人間が書いてはいけないし、また表舞台に出てきていい面白さではありません。
被災者でもない人間が、被災地の人間のことをネタにすることを許す……この構造に大きな矛盾を感じずにはいれませんでした。
投稿: 西山諏訪子 | 2018年7月 6日 (金) 10時48分