村上宣寛 著 ハイキング・ハンドブック 著者・紹介文の第2弾
村上宣寛 著 ハイキング・ハンドブック
著者・紹介文の第2弾です。ご一読ください。
毎年、夏休みはアメリカでハイキングをして過ごしている。冒険家の気質は欠片もない。飛行機に乗るのが嫌だし、アメリカも嫌いだった。英会話はまるでできなかった。一生、日本から出る予定はなかった。それが、ちょっとしたきっかけで、ジョン・ミューア・トレイルを歩いた。縄張り確認行動なのか、同じ場所を何度も訪れる習性がある。その結果、4回も歩いた。
ジョン・ミューアの影響で、世界に先駆けてアメリカに国立公園が整備された。アメリカはハイキングの先進国である。アメリカに行った後、パシフィック・クレスト・トレイル(PCT)のハイカーのメーリング・リストに参加した。一日に20~30通が飛び交うメーリング・リストである。全部はとても読みきれないが、PCTを歩く人たちの情報の宝庫である。参加者にはハイキングを始めたばかりの人も多い。スルー・ハイクの経験者が助言を与えるのだが、ほぼすべての事柄に「私の場合は上手くいった」という限定詞が付く。
個人的に強く感じたのは、人間の精神は個人的経験の奴隷だということだった。自分の体験は語れるのだが、それが一般性のある知識なのか、個人に限定される知識なのか、判断できない。個人的経験や思い込みで、何も問題が起こらなければ、それでよい。しかし、無意味な努力を必死で行うのは時間の浪費だし、怪我や事故のきっかけになる。
ハイカーや登山者の個人的経験や知恵が完全に間違っているという場合がある。ハイキングや登山に関連する学問領域には、体育学、エルゴニクス、医学、衛生学、被服学、栄養学などがあり、研究が蓄積されている。誰でもPubMedという公開データベースを検索すれば決定的な知識が得られる。
私はメーリング・リストで議論が起こるたびに、PubMedを検索し、ちょっとした意見を書き込んだ。そのメモがある程度、集まったので、エルゴニクス関連のエッセイを書こうかと思った。ところが、ハンドブック的な物のほうがよいと言われたので、全体を書き下ろした。
ウィスナルらが2006年に行ったインソール研究は面白い。イギリス空軍の新入兵1205名にソルボ(3ミリ厚)とポロン(発泡ポリエチレン3ミリ厚)とサラン(繊維でできた3ミリ厚)のインソールを無作為にに割当て、8ヵ月間の基礎訓練を行い、下肢の傷害を調査した。その結果、靴に付属の安物のサランと、他の高級インソールの間に差がなかった。これは、ランダム化比較試験の前向き縦断研究と呼ばれる研究デザインで、最も信憑性が高い。インソールはマメ防止とかフィット感の向上には役立つが、結局、怪我防止という観点からは、高級インソールは不要という結論である。
ストレッチの怪我防止効果について、多くのランダム化比較研究が蓄積している。ハーバートらは2011年に信憑性の高い研究に限定して、メタ分析を行い、統計的な総括を行った。結果は非常に明確で、エクササイズの前にストレッチを行う場合、1日後の筋肉痛は100段階尺度で0.5段階減少した。一方、エクササイズの後にストレッチを行う場合、1日後の筋肉痛は100段階尺度で、1段階減少した。この値は誤差範囲で、実質的にストレッチには効果がないという結論である。
科学は時々、常識を覆す。それは我々の常識が間違っているからである。我々は一度直感的に結論を下すと、その結論をなかなか修正できない。心理学で確証バイアスと呼ばれる現象である。『ハイキング・ハンドブック』は、おそらくエビデンスを意識した、世界で最初のハイキングの本だろう。
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