新刊 福間良明 著 『焦土の記憶』
福間良明 著
『焦土の記憶』――沖縄・広島・長崎に映る戦後
11.7.15 978-4-7885-1243-6
46判536頁・定価 本体4800円+税
見本が出来ました。配本日は7月19日。書店さん店頭ヘは2,3日後になると思います。
本書は、拙著『殉国と反逆――「特攻」の語りの戦後史』(青弓社、二〇〇七年)や『「戦争体験」の戦後史――世代・教養・イデオロギー』(中公新書、二〇〇九年)の延長上に構想したものである。両書では、戦後日本における戦争体験記や戦争体験論の変容を扱ったわけだが、沖縄の状況との相違については、『「戦争体験」の戦後史』を執筆していたころから気にかかっていた。沖縄では、一九六〇年代末になってなぜ、急激に戦記発刊が増えたのか。日本本土とは異なり、戦中派よりも若い世代がなぜ、体験記録の収集に深く関わったのか。その時期が、「反復帰」論の隆盛と重なっていたのはなぜなのか。また、広島や長崎の場合はどうだったのか、広島と長崎とでは議論が生み出される構造に相違がなかったのか――それらの疑問は、前著を執筆しているときから抱いていた。
当初はこれらも『「戦争体験」の戦後史』に盛り込むことを考えていたが、時間的な問題もさることながら、分量の面でも新書に収まるものではないことが、自分のなかで明らかになってきた。そして何より、議論の磁場の錯綜を考えると、別の一書とすべきであろうという判断に至った。本書はそこでの着想に基づくものである。
もっとも、共時的な位相差とその通時的な変容プロセスを考える作業は、これまでの仕事のなかでもいくらか行なってきた。拙著『「反戦」のメディア史』(世界思想社、二〇〇六年)では、戦後のポピュラー・カルチャー史のなかで、「銃後・前線」「学徒出陣」「沖縄戦」「原爆」がどのように議論され、いかなる捩じれや齟齬が見られたのかを考察した。『辺境に映る日本』(柏書房、二〇〇三年)では、戦前・戦時期の諸学知の系譜を比較対照しながら、領域横断的な知の編制プロセスと知識人のナショナリズムについて検討した。両書の分析対象は異なるが、個別のテーマや領域に特化するのではなく、複数の領域を視野に入れることによって見えてくるものに関心があった点では共通している。その意味で、筆者にとって五冊目の単著となる本書は、前著のみならず、これまでの研究全般の連続上に位置づけられるものでもある。
とはいえ、今回の作業では、これまでにない困難や困惑を感じていたのも事実である。沖縄戦記にせよ被爆体験記にせよ、その言説資料は膨大な量にのぼる。筆者も、それらの主たる文献はもちろんのこと、私家版も少なからず入手したが、正直なところ、資料群のあまりの多さに途方にくれたこともしばしばあった。それもあって、この研究を始めて一年ほどは、ほとんど作業が進捗しなかった。そこで、まずは主たる論者や彼らが論考を発表した媒体に重点を置くことにし、そこから地域の新聞や文芸誌に当たってみることにした。
新聞はともかく、ローカルな文芸誌となると、資料の散逸が甚だしく、国公立の図書館・資料館や大学図書館に所蔵がないものも少なくない。しかし、何とか資料の所在を突き止め、かつての地域文芸誌・評論誌(紙)をめくるなかで、大きな知的興奮に浸ることができたのも、また事実である。同時代の戦後日本の状況と照らして意外性のある議論も多々見られた。世代間の闘争や連携もさまざまに異なっていた。その過程で、沖縄・広島・長崎に対するそれまでの理解が覆されることも少なくなかったし、それとの対比で見えてくる戦後日本の像もいたって興味深かった。
ちなみに、筆者は本書で扱った時代をほとんど生きてはいないし、沖縄や広島、長崎で生まれ育ったわけでもない。本書の記述は見方によっては、「部外者」の受け止め方とも言えよう。だが、そのゆえに描けることを模索したいという思いもあった。
ここに本書を書き終えて改めて思うのは、戦争の記憶や体験の語りが共時的にも通時的にもいかに捩じれていたのか、ということである。
沖縄の場合、議論の主たる駆動因は、「本土への違和感」とでも言うべきものであった。旧日本兵による戦後初期の沖縄戦記、沖縄を切り捨てた形での本土の占領終結、米軍基地を存置したままの沖縄返還――これらに対する不快感が、沖縄の体験記や体験論を生みだす動機となっていた。
広島・長崎で議論を突き動かしていたのは、「継承の切迫感」であったように思われる。後遺症や遺伝の影響への懸念を考え合わせると、被爆体験は「過去」に閉じるものではなく、むしろ、当事者の戦後の生存を脅かす「現在」の問題でもあった。そのことが、政治的な問題解決への志向に結び付き、かつ、他の戦争体験の語りに比べれば、世代や体験の有無を超えた連携を可能にした。
むろん、「継承」をめざす動きは、戦後日本であれ沖縄であれ、見られなかったわけではない。しかし、そこにはしばしば、体験者や戦中派の語りと「あるべき政治的な議論」とのあいだに齟齬・軋轢が見られたのに対し、広島・長崎では、その問題は言説レベルではさほど表面化しなかった。他方で、それによって、どのような声が抑えられたのか、広島と長崎とでいかなる相違があったのかは、本書で既述したとおりである。
そして、これら「本土への違和感」や「継承の切迫感」がその時々の社会状況と複雑に絡まりながら、沖縄・広島・長崎の体験論は紡がれてきた。そこでは必然的に戦後日本の体験の語りとは異質な力学が作動していた。むろん、本土や沖縄、広島・長崎とで議論が似通うことも決して少なくなかった。だが、その背後にある意図や議論の動機は、大きく相違していた。
このことは、従来、ほとんど顧みられることがなかったように思う。語りや記憶の「内容」(何が語られているのか)については多々論じられてきた。それが「被害」の意識に留まっているのか、それとも「加害」の視座を有しているのかという点についても、議論が積み重ねられてきた。しかし、体験論や記憶が紡ぎ出される「構造」「力学」については、検証が十分ではなかった。
もっとも、本書とて、これらの検証が十全たり得ているわけではない。沖縄や広島・長崎以外でも、考察すべきものは多岐にわたる。個々の戦場体験の議論の変遷や銃後・疎開体験論の変化など、今後の検証が必要なものも少なくない。沖縄・広島・長崎に限っても、本書で扱い得たものは、多種多様な議論のなかのごく一部でしかない。だが、その限られた範囲ではあっても、議論が何に突き動かされてきたのか、そこから戦後日本の議論の構造をどう問い直すことができるのか――その一端を浮き彫りにしたことは、本書のささやかな存在意義ではないかと思っている。(本書エピローグより一部引用)
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