新刊 荒川 紘 著 『教師・啄木と賢治』
荒川 紘 著
『教師・啄木と賢治』新刊見本できました。
46判400頁・定価 本体3800円+税 ISBN 978-4-7885-1201-6
奥付 10.06.30
配本は6月30日で す。書店さんには2,3日後の到着となります。
あとがき
六〇年安保闘争の終わった年の初冬、東北大学の二年生だった私は仙台駅から鈍行の列車に乗って渋民駅で下車し、渋民の集落を訪れた。五〇年も前になるのだ が、街道の両側に茅葺きの家が立ち並ぶ光景は忘れられない。まだ明治の渋民村があった。啄木一家の住んでいた家からは着物姿の啄木がいまにも出てくるよう に思われた。啄木の育った赤いトタン屋根の宝徳寺にも立ち寄り、北上川の河畔に立つ「やわらかに柳あをめる」の大きな歌碑を見た。そこからは啄木が「おも ひでの山」と詠んだ岩手山も見えたはずである。ところが、啄木が学び、教えた渋民小学校には立ち寄っていない。私の意識にあったのは歌人の啄木であった。
その夜は盛岡市内にある岩手大学教育学部の寮に世話になった。
六如寮という今はない寮の寮生であった私は無料で宿泊させてもらうことができた。木造の古い寮の一室に私のためのベットが用意されたが、寮の委員が寒いだろうといってストーブを焚いて付き合ってくれ、結局徹夜の懇談となった。教育学部の寮であったのだから、教師・啄木の話も出たと思うのだが、記憶に残っていない。翌朝には、寮の食事を御馳走になり、「石川一」名で仙台の友人あてに葉書を書き、盛岡城跡に立ち寄って「不来方のお城の草に寝ころびて」の歌碑を見、私も芝生に寝ころび、盛岡の空を眺めたのをよく覚えている。
花巻を訪ねたのは静岡大学勤務となった二七年ほど前、宮沢賢治記念館が開設された直後である。正月の休みを利用して出かけた。仙台までは東北新幹線をつかい、仙台の病院に入院中の友人を見舞った後、在来の東北本線で花巻にむかって花巻駅前の旅館に宿をとった。女将は今日はお客さんが一人なので、申し訳ないが銭湯に行ってほしいという。とにかく寒い、このままでは眠れないと思い、凍った道に足を取られながら銭湯に出かけ、一風呂浴びてきた。それでも、寒かった。賢治は厳寒の花巻で読まれるべきだということを聞いていたし、私もそう思っていたので、花巻には賢治の作品の文庫本を持参したはずなのだが、あまりの寒さで文庫本を開くことはなかったのだろう、書名も思い出せない。
翌日には女将が紹介してくれたタクシーで花巻市内を回った。親切な女性の運転手は賢治が生活をした街を上手に案内してくれた。今は花巻農業高校内にある羅須地人協会の建物では、持参した鍵で入口を開け、内部を見せてくれた。賢治たちが坐った丸椅子にも坐らせてもらった。尻にはその感触の記憶が残っている。イギリス海岸に出かけ、雪の坂道をのぼって宮沢賢治記念館を見学した。空襲で焼けたが、再建された賢治の生家で、当時は弟の清六さん一家が住んでいた家も案内してくれた。そこで、彼女は今日は清六さんもいるはずだから会っていけばよい、と言う。あまりにも唐突であった。運転手さんの名刺をいただいているので、あらためて出かけてきますと言って、断わってしまった。清六さんが九七歳で亡くなったのは二〇〇一年、時間はずいぶんあったのだが、結局会わずじまいとなった。
その後、渋民にも花巻にも足が向かなかった。昔の渋民はもうない、と聞かされていたので、その変わってしまった渋民を目にしたくなかった。私の脳裏に刻まれた明治の面影の残っている渋民が消えてしまうような気がしていたのである。花巻も変わったであろう。清六さんのいない花巻は空しい。花巻を訪れることもなかった。盛岡に行く機会もなかった。
その間、私の職場の大学も変わった。人間教育を担う教養教育は一九九一(平成三)年に大学設置基準の大綱化の名のもとに縮小され、担当部局の教養部は解体された。二〇〇四年には、すべての国立大学が独立行政法人(国立大学法人)となる。一般の会社とおなじく大学は理事会の指示で動く組織となり、それまで大学運営の中心にあった教授会は形だけのものとなった。政・官・財が一体となって産学協同の徹底化=「教育の市場化」を推進させようとする大学改革に私たちは抗し切れなかったのである。それに、大学の内部でも法人化を望む教員が少なくなかった。こうして、戦後「国民のため」の大学として出発した新制大学は死んだ。
だが、教育の戦いは長期戦である。私は教育の歴史を学びはじめ、教室で学生にも語るようになっていた。つぎの世代を担う学生たちに「教育とはなにか」を考えてもらいたかったのである。そして、三年前に『教養教育の時代と私』(石榴舎、私家版)を出版、つづいて本書にとりくんだ。
そうするうちに、啄木と賢治が学び、教えた土地をもう一度見たくなってきた。そこで、本書の構想がほぼまとまった一昨年の五月、渋民と花巻と盛岡を訪ねた。
車がはげしく往来する渋民の街道を歩いてみたが、啄木が「生命の森」とよんでいた愛宕神社の木立のほかには、あの茅葺きの家が立ち並ぶ光景を想い起こさせるものは見つからなかった。それでも、啄木の勤めた渋民小学校と啄木が住んでいた斎藤家の住宅は新しく建てられた石川啄木記念館内に移築されていた。私は天井の低い渋民小学校の教室の教壇に立ってみた。記念館では啄木が赤字をいれた一戸完七郎の「綴方帳」を見ることができた。啄木が謄写版で刷り、生徒に配った「課外英語科教案」もあった。
花巻では、かつて私の泊まった駅前の宿も女性の運転手さんの勤めていたタクシー会社も銭湯もなくなったことを、今でもおなじ駅前で営業している「はこざき民芸」の女主人から教えられた。それでも、宮沢家が営んでいるカフェ「林風舎」のことを聞き、そこを訪ねて清六さんの孫である宮沢和樹さんから清六さんについての話をうかがうことができた。清六さんも祀られている宮沢家の墓にも詣でてきた。賢治が就職した稗貫農学校の跡とその後名を変え、場所も移された花巻農学校の跡を訪ね、それに、羅須地人協会のあった花巻郊外の下根子にも足を運んだ。そこで私は、いまは戦後新しく建てられた花巻農業高校内にある羅須地人協会の建物はこの下根子にもどされるべきだと思った。
盛岡で立ち寄りたかったのは盛岡藩の藩校・作人館の跡、自由民権運動の結社・求我社と学塾・行余学舎の跡、それに盛岡中学校跡である。岩手県立図書館でその場所を調べ、現地を訪ねた。求我社と行余学舎があったのは、明治時代にはもっとも賑わっていた旧呉服町商店街の一角で、いまは盛岡信用金庫本店となっていた。「学制」の制定とともに岩手県で最初に設立された仁王小学校に利用された作人館跡の一部は小公園として利用されており、かすかに作人館を偲ぶことができた。かつては盛岡城内であったこの付近は、盛岡中学のほか私立盛岡女学校、師範学校、啄木も通った学術講習会(のちの江南義塾)などが建てられた盛岡の文教地区だったが、これらの学校はすべて場所を移し、いまはない。白ペンキで塗られ白亜校と呼ばれた二階建ての盛岡中学校があった土地には岩手銀行本店の一〇階建てのビルが建つ。そのビルの東側の道路沿いに金田一京助の筆になる「盛岡の中学校の/露台の/欄干に最一度我を倚らしめ」の歌碑を見つけて、盛岡中学校舎跡と確認できた。
当時のもので健在であったのは岩手銀行本店隣の裁判所にある石割り桜、巨大な花崗岩の割れ目に生える樹齢約三五〇年のエドヒガンザクラは造園家の藤川益次郎さんとその弟子たちの心血を注いだ保護によって幾度かの枯死の危機を乗り越えることができたという。五月上旬には啄木や賢治も見たであろう小ぶりな白い花を木いっぱいに咲かせてくれる。
盛岡中学校の白亜の校舎は今はない。でもそこに学んだ啄木と賢治の精神は、石割り桜のように今も生きつづける。私はその精神をうけつぎ、若い人々に伝えてゆかねばならない。その気持を強くして、盛岡を後にした。
*
日本の教育の現状を憂え、教師の私を常日頃きびしく叱咤してくれる西岡正氏(元朝日新聞社)は、私の抱えていた原稿を新曜社編集部の渦岡謙一氏に紹介する労をとってくれた。渦岡氏は超多忙のなか、その原稿を精読して、多くの誤りを正してくれ、読みやすい本に仕上げてくれた。両氏の厚意に甘えさせていただき、本書は日の目を見ることができたのである。心から感謝の意を表したい。
二〇一〇年五月
荒川 紘
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サンデー毎日「本棚の整理術」 2010年9月5日号掲載
「教科書を離れた自由な発想で課外授業なども行い、生徒たちにあざやかな印象を残した石川啄木と宮沢賢治。文学者として名を残す前に卓越した教師であった二人を中心に据え、近代日本の教育史をまとめたのが荒川紘著『教師・啄木と賢治』。。
十歳違いの啄木と賢治は、盛岡中学校(岩手県立盛岡第一高校の前身)に学んだ。啄木は母校渋民小学校の代用教員として1906年から一年余り、賢治は1921年から26年まで稗貫農学校(後の県立花巻農業高)で教えた。著者は「政治と戦争の歴史」から日本の近代教育史を切り離すことができないと考え、明治維新以降の学校の制度の変遷を迫っていく。啄木、賢治を生み出した東北の教育事情や教育者にも注目している。
科学思想史を専攻するものは、戦前や戦時中に「科学的精神」が体制側に都合のいいようにゆがめられていった過程を丹念にたどる。そして「冷静な目をもった批判者の存在を許さなかった国家主義教育が、教師と生徒が自ら考え、みずからの意見を表明することを否定した」と述べる」
投稿: 中山 | 2010年9月24日 (金) 18時46分
佐藤 勝さま
はじめまして。
ご返事遅くなりましたことお詫び申し上げます。
ご意見お寄せいただき、ありがとうございます。
担当編集者にはコメント、転送しました。
ある本が、その他関連本のなかでどういう位置にあるのか、これは営業の人間からするとほんとうに分からないところで、分かるまでに時間がかかります。
数多くある賢治研究、教育論のなかで本書がどのような位置にあるのかが、佐藤様のコメントで、分かった気がいたします。
ありがとうございました。
投稿: 中山 | 2010年7月21日 (水) 12時23分
アマゾンで取り寄せて、一作日から読み始めました。教育者の啄木や賢治を論じた本は、これまでにも沢山の本が出ております。
私は啄木を主に読んできたのですが、一部の著者を除けば、その多くの著作は、強いイデオロギーをもって書かれているように思います。
が、荒川氏の文章には主義、主張を押し付ける臭みが無くて、読んでいて疲れませんでした。
啄木や賢治を通して、近代日本の「教育」を論じておられますが、私はこの本の中で、「教育とは誰のために」なされるべきか、といいうことをあらためて考えさせられました。
そして、深く感動しております。
投稿: 佐藤 勝 | 2010年7月 8日 (木) 06時47分