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2008年10月27日 (月)

書評高野陽太郎著『「集団主義」という錯覚』

高野陽太郎著『「集団主義」という錯覚』の書評が、2008年10月26日付毎日新聞に掲載されました。
評者は沼野充義先生。評者の先生、掲載紙ご担当者さまには厚くお礼申し上げます。ありがとうございます。

毎日新聞 今週の本棚 沼野充義 評 『「集団主義」という錯覚』(書評全文がお読みいただけます)

9784788511156

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コメント

ブログ管理人 中山様
中山さんが何歳か存じませんが「かしこまりました」など、後に言葉が続かない擬似丁重な態度を取られないよう望みます。
最初の返信に「弊社にも生粋の京都人がおり、関西に編集部がありますので、十分に検討」とありましたが、会社としての回答はその後どうなりましたか。
十分に検討するまでもなく、グーグルで 自分 大阪言葉 で検索してみれば、
http://naruchan.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_adf1.html や
http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89 や
http://d.hatena.ne.jp/yinamoto/20060812 など、

自分 大阪弁 で検索しても
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1211880652
など「自分=相手のこともいうフシギ」があふれかえっていますよ。
「『自分』は私的自己のみをあらわす」という命題は、関西弁の会話では限定的にしか成立しません。従来の日本人論通説への反証としての「自分」の例は、大阪では<そうかなぁ、言えないことはないけど、成り立たないこともあるよなぁ>となると思いますが。
ちゃんとした出版社の自覚があるなら、ただ版を重ねないで、編集者の編集責任も考えてくださいナ。

投稿: 大嶋幸範 | 2009年1月30日 (金) 13時38分

大嶋さま

>御社が編集者として軽々に「訂正不要」と判断されないよう望みます。

かしこまりました。

投稿: 当ブログ管理人 中山 | 2009年1月26日 (月) 22時27分

訂正の必要なしといわれる根拠が明示されていませんが。単にコストがかかるからだと思うのは、勘繰りでしょうか。
「『自分』は私的自己のみをあらわす」という命題は、日本の重要方言である関西弁では限定的にしか成立しないということを、私は申し上げています。
「私的自己を表す言葉が日本語にはちゃんとある」という立論自体が本著作に絶対不可欠とも思えませんが、それはまぁいいでしょう。しかし論を立てる以上はそのなかに瑕疵があってはならないはずです。
誤解の無いように申し上げますが、私は本著作は優れたものと思っています。それゆえに、御社が編集者として軽々に「訂正不要」と判断されないよう望みます。

投稿: 大嶋幸範 | 2009年1月26日 (月) 12時47分

早速ですが、私個人の見解では本書の記述に削除訂正するまでの問題はないと思います(会社としてもそう返事するのではないかと思います)。が、弊社にも生粋の京都人がおり、関西に編集部がありますので、十分に検討したうえでご返答したいと存じます。

貴重なご意見お寄せいただき、ありがとうございます。

投稿: 当ブログ管理人 中山 | 2009年1月25日 (日) 00時18分

本文中に1箇所、重要な事実誤認がありましたので、お知らせします。
p102-110で何度か、「自分」と言う語は「私的自己」のみを表わすと書かれていますが、
大阪弁・京都弁では「自分」は二人称=Youとしても、頻繁に用いられます。論理的には奇怪ですが。
とくに、くだけた口語体においては、年齢を問わず男女とも多用します。
ただし相手が目上の場合に使うことはありません。
p105「・・・泳げないと信じている」の3つの例文の即して説明しておきます。
第1例文「私は、自分は泳げないと信じている」は、関西弁では
「私は、あなたは泳げないと信じている」の意になり得ます。
第2例文「君は、自分は泳げないと信じている」は、関西弁でも
「君は、自分自身は泳げないと信じている」の意です。
第3例文「彼は、自分は泳げないと信じている」は、関西弁では
「彼は、あなたは泳げないと信じている」の意になり得ます。

これら、「自分」=二人称(You)は、幼児に対して「ボクいくつ?」とボクを二人称に用いるような、所謂派生的用法ではありません。

関西弁が日本語の重要方言であり、歴史経緯や使用人口の数を考えると、p102-110は書き変えられたほうが賢明と思われます。
ご検討をお願いいたします。
著者は「知識として知ってはいたが執筆のとき『忘れていた』」そうですが、改版でどうするか明言されていません。誠意ある姿勢とも思えません。出版社としてはいかがお考えでしょうか。私見ではp102-110は削除してもこの本は成立します。

投稿: 大嶋幸範 | 2009年1月24日 (土) 16時54分

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